花田さんが公開を意図されていた内容のメールにも関わらず、公開が遅くなってしまったことお詫びします。
なを、このブログには誰でもが匿名でも書き込みができるのでメールでご連絡いただかなくても差し支えないです。
当時の記憶が生々しく伝わる内容ですね。
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2019/09/11
服部公則さんからの紹介でサイトを知りました。
若干の記憶をお伝えします。
私は当時2年生でしたが、関心も関わりも持っていました。 あまり記憶は残っていません。
糾弾会当日は、たしかに一部の生徒が退出しましたが、 これは自主的に退出したものではなく、 当時の民青諸君による組織的取り組みでした。私も同学年の友人、 このサイトに出てくる河内晴彦君ですが、から、 糾弾会が始まって、 何分かしたら一斉に退去するので一緒に出ようと誘われていました 。わたしは退出せずずっと聞いていました。 退出したのはわずかの人数だったかと思います。
バリケード封鎖、訓戒だか戒告だかの処分も受けました。 反省文を出すように言われ、 抗議文を出しましたところそれで終わってしまいました。
花田昌宣
熊本学園大学
水俣学研究センター
熊本学園大学
水俣学研究センター
服部です。
返信削除花田さんからの投稿に関して
糾弾会当日(1969/07/10)は河内くん達数人が糾弾会から立ち去ったことの意味がわからず混乱しました。
その後すぐに、矢田差別事件をめぐる共産党と解放同盟と政治的対立を背景にした共産党民青の組織的な行動であったことが判明しました。
(1)前日から糾弾会出席予定の各クラス代表70名に電話をかけ、糾弾集会を傍聴しないようにと呼びかけていたこと。
(2)「立ち去る」タイミングは、教員組合の分会長である教師(今安氏)に問いかけの時点であること。
(3)糾弾会から立ち去ったあと、教室で傍聴している人たちに「聞くに耐えない内容」であるとふれ回ったこと。
などが明らかになりました。
河内くん達はその後一切の自治会活動を放棄したので、残った自治会役員であった一人として苦労したことを記憶しています。
その後「民青」諸君との対立的な考えになっていきました。